Die 12 Fluchtlinien auf Japanisch

「公正な脱成長の経済」をめざして 脱成長 – 成長を超えた公正な経済のための12本の「逃走線」

アレクシス・J・パサダキス(Alexis J. Passadakis)
マティアス シュメルツァー(Matthias Schmelzer)

[タイトルおよび著者については脚注を参照[1][2][3]]

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1) われわれの目的: グローバルで具体的な社会的権利

われわれが成長を批判する目的は何か、われわれはなぜ、この時代に脱成長経済のための逃走線を描くことが必要だと考えるのか? われわれの目的はグローバルに社会的権利を確立し、「善い生活」[4]がすべての人々にとって可能であるようにすることである。われわれの「公正な脱成長の経済」というオルタナティブは、多くの成長批判論のように単に抽象的な「人間の生存」や「自然の保全」に焦点を当てているのではない。この種の展望は個人や集団の具体的な社会的権利をあいまいにする危険がある。それとは違ってわれわれのオルタナティブはこの場所で今、そして将来に社会的公正と平等の要求を満たすことを目的としている。これまで社会的問題とエコロジーの問題はしばしば別の問題として扱われていたが、過去にイギリス農民が大土地所有者である貴族たちによって共有地から追い出された時代でも、現在でも、これらの問題は切り離して考えることはできない。多国籍企業がますます多くの自然資源を強奪してきた時代を経て、世界的なバイオクライシス(気候の危機、ピークオイル、生物多様性の喪失、土壌の劣化など)が数億人の人々の生存を脅かしている中で、(グローバルな)公正は社会的・エコロジー的な公正以外にはありえない。この方向に向けての中心的な座標点が「公正な脱成長の経済」である。

2) 自然は有限であり、制約がある

有限の地球上での無限の成長は不可能である。新古典派経済学者たちは自然とその制約の存在を排除した。われわれが「現実」と呼ぶものの諸側面としての物質、空間、時間は彼らの教科書には登場しない。自然は資源という形でのみ登場し、それが稀少になった時は追加の資本投資によって代替物が得られると考えられている。しかし生産と再生産は基本的には自然を基礎としている。地球はサービス(清浄な空気、農地など)を提供し、原料はそこから抽出され、変形される。自然には限界があり、資本によっては不十分にしか補償されていない。もちろんカリフォルニアの果樹園で人工授粉機を使用するコストを計算することは可能だが、ハチがいなければ困ったことになる。世界的なバイオクライシス、特に気候の危機と、石油の生産のピーク(ピークオイル)が近づいているという事実は、成長に外部的な制限を課している。高度に凝縮した化石エネルギー源の利用と資本主義の成長システムが深く結びついているため、ピークオイル(2005年から2020年の間に起こると予想されている)は特に重要な現象となっている。問題は単にどのように対応するかということであり、無秩序かつ暴力的に対応するのか、民主主義的な計画と協力によって対応するのかである。極端な気候がもたらす災害と資源をめぐる戦争はわれわれの未来に長い影を投げかけている。それは世界の社会的闘争のための条件を有利にしない。

3) デカップリング(切り離し)はできない

この2-3年、「持続可能な成長」、「グリーンな成長」、「グリーン・ニューディール」などの概念や各種の「グリーン資本主義」のルネッサンスが起こっている。さまざまなシンクタンクが新しい概念を開発し、政治家たちはそれを使って新しい多数派を形成しようとする。これらの綱領的なアプローチのすべてに共通しているのは、経済成長と資源の利用や環境破壊の完全なデカップリングが可能であるという考え方である。つまり、技術革新、再生可能エネルギー、資源の利用効率の向上、グリーン・サービス部門への転換(非物質的成長の目標とされている)によってGDPの継続的成長を実現しながら、同時に化石エネルギーやその他の有限の資源の消費を減らすことができるだろうというのである。このようなデカップリング – それを必要とされる絶対的水準まで進めること – は幻想である。北の先進工業国においてCO2排出を減らし、同時に経済成長を維持するためには資源の利用効率の向上と、技術的および政治的に可能な限界を超える技術的発展が必要とされる。これはわれわれの経済の仕組み、技術革新のレベルが逓減するという歴史的傾向、デカップリング戦略が今日まで成功していないということからも言える[i]。したがって、成長を維持しながらバイオクライシスから脱出するというのは現実的なオプションではない。しかも南の貧しい地域に中期的な発展と成長のためのオプションが提供されなければならないことからも、北の経済を健全なレベルまで縮小することが必要とされる。

4)「彼らの景気後退はわれわれの脱成長ではない」[5]

これはフランスで2009年の危機の中での抗議行動で掲げられたスローガンである。次のことは明白だった。つまり、われわれの脱成長の経済の考え方は、既存の経済・社会構造と分配のあり方の中で経済を縮小するということではない。これは、われわれが現在経験しているような大規模な社会的後退、貧困その他の資本主義の危機の症状をもたらすだろう。既存の成長依存の構造の中では、経済の縮小は、生産性が向上してもそれに対応する成長が見込めないために、失業が急激に増大するという結果をもたらす。需要は減少し、危機は深刻化し、景気後退はデフレを伴う。同時に、政府の税収が減り、社会保障制度が圧迫され、債務が爆発的に増える。この両方の要因が景気後退と貧困拡大の危険な相乗効果をもたらす。成長依存の資本主義においては、「縮小=景気後退=社会的危機」という等式が成り立つ。

5) …彼らの緊縮政策はわれわれの脱成長ではない!

「公正な脱成長の経済」への移行のためには、まず第一に社会的公正と全世界の人々の「善い生活」を可能にするような新しい経済の文法のための闘争が要求される。それは結果としてGDPの縮小につながる。しかし、縮小の必要性のみに焦点を当てるのは還元論であり、危険である。これは新自由主義者や保守派、あるいは新封建主義者の成長批判を見れば明らかである。特にドイツ連邦政府の中ではエコロジー的関心からの議論が「われわれはぜいたくをしている」、「ベルトを締めなければならない」という反動的なコーラスに加わり、成長批判が緊縮財政政策や社会サービスの予算削減を正当化するテコとなっている。[ii]これとは反対に、連帯を基盤とする脱成長の経済の考え方は、現在および未来における全世界のすべての人々の社会的権利を実現可能にするために、民主的な話し合いに基づいて生産と消費を減らすことを目指す。

6) 「よい成長」などない、「善い生活」だけで十分だ!

脱成長は資本主義後の社会についての抽象的で空想的な思索を目的としているのではなく、しばしば見過ごされている社会経済的およびエコロジー的な力学を認識し、それに対応して解放のための戦略の方向を転換することを目指している。政府と多国籍企業はそのことに反対している。しかし、欧州労連(EFTU)の官僚たちのように、現在の危機に対する運動の中で「支出削減反対、もっと成長を!」と先導している人たちも同様である。社会的支出の削減に反対することは必要だが、彼ら/彼女らは成長率を上げることで社会問題を解決できるという幻想に陥っている。長年にわたって工業諸国における成長率は低下してきた。これは成長の限界(資源のコストの上昇、破壊的な気候変動など)だけでなく、資本主義的発展に内在する限界(需要の相対的な飽和化)にもよる。成長だけでは長期にわたって失業の問題を軽減するには十分ではないし(「雇用なき成長」)、成長すれば公共の福祉が増進するわけでもない。波が高ければすべての船が持ち上げられる[iii]というわけではない。また、伝統的左翼の成長戦略にとってピークオイルも大きな難題である。資源確保のための戦争、破滅的な深海探索、何百万人もの環境難民は、化石燃料に依存する成長モデルの不可分の一部を成している。成長はグローバルな社会的権利という目標と対立する。成長するものは抽象的な交換価値であり、ごく少数の者にとっての蓄積の機会であり、それはすべての人々のための「善い生活」を不可能にする。

7) 新ケインズ主義ではなく、ケインズを超えて

ケインズ派の政策は1970-80年代に、投下資本に見合った利潤という要求を満たせなくなったときに破綻した。要するにケインズ派の成長モデルはその限界に達したのである。それに対する回答が新自由主義(その首謀者であるミルトン・フリードマンはそれをケインズ革命に対する「反革命」と呼んだ)だった。そうこうするうちに金融資本に主導される新自由主義成長モデルも危機に入った。ケインズ派の破綻 – 特にグローバルな脈絡における – と明らかなエコロジー的な制約を考えると、新ケインズ主義的段階、あるいは新自由主義的な金融市場資本主義を超えるエコケインズ主義的成長プログラムへの期待は的外れである。解放を目指す左翼やケインズ派によって議論されている多くの概念は依然として重要であり、特に社会的な不公正と搾取をなくすための議論、ラディカルな再分配、労働時間の短縮、経済的民主主義、資本と投資への規制は重要である。成長するのでなく定常状態まで収縮する経済という基本原理の下で、これらの議論をさらに進んだ考え方 – 共有財の(再)割り当て、脱グローバル化、新しい労働の形態、食糧主権[iv]、エネルギー民主主義など – との関係で再構築することが必要である。したがって、経済停滞の理論家で、強制された労働と利潤動機から解放された社会をスケッチした知られざるケインズを発見する必要がある。結局のところ、「公正な脱成長の経済」に到達するためにはケインズを通過し、ケインズを超えて進まなければならないのである。

8) 生産を減らし、労働時間を短縮し、富を再分配し、投資を規制する

脱成長とは、皮相なポジティブサム・ゲームの論理(「互いに得をする」)に基づく利益分配の政策や希少性を基礎とする経済 – そこでは経済が成長するときにのみ再分配が行われる – という幻想との決別を意味する。「トリクルダウン」[6]が全く機能しなかっただけでなく、実際には経済成長は低開発の問題を生み出し、分配の不平等を拡大した。しかし、すべての人々の必要を満たす十分なモノはある。富は平等に分配されなければならない。これ以上成長するべきでない。それが現実となるためには、フランスの「decroissance (脱成長)」運動[7]が要求しているように、最小限の所得だけでなく、所得の上限が必要である。脱成長運動はまた、成長を基盤とする完全雇用社会という幻想と決別する。長年にわたって実質成長率は、生産性向上と商品化によって自由になった労働力を労働市場に再統合するには十分でなかった。社会の多くの層を貧困化させ「使用済み」にすることに対する対案は、すべての人々の労働時間を短縮することである。さらに、長期にわたってGNPを縮小していくためには、賃労働として行われる労働の絶対量を減らすことが必要である。さしあたって週20時間で十分だ![v] また、忘れてはならないこととして、賃金のための労働以外の生活もあり、そこでは、フェミニストの経済学者たちが常に指摘しているように、社会を生産(再生産)するために必要が仕事の多くが行われている。これもすべての人々に分配されなければならない。

労働時間の短縮は成長経済のギアに投げ込む砂であり[8]、それは必要な戦略的選択の余地を与えるが、それだけでは十分ではない。結局のところ、企業はさらに大規模な「合理化」をはかるだろうし、彼らの利潤をあげ成長するという至上命令は撤回されないだろう。新たな非通貨的な形式の取引、公正な連帯経済、共有財の充実化と管理が決定的に重要である。

同時に、実際に存在する金融資本主義に介入し、投資を民主主義的に規制し、それを化石化された高成長の部門から、「ケアの経済」、使用価値を重視する草の根のサービス、そして社会的・エコロジー的転換に関わる部門へ振り向ける必要がある。そして(公的)債務の支払いの代わりに、われわれは債務の帳消しのために闘う。債務を帳消しにせよ![vi]

9) 資本主義を超えて

成長批判にとどまるのではなく、経済を脱成長させようと真剣に試みる人たちはすべて、巨大な難問に直面する。なぜなら、それは根本的な社会の転換であり、社会の根幹に触れるものだからである。脱成長の経済のために活用できる技術的な概念や、モデル的な連帯経済プロジェクトの個別の実践は必要であるが、資本主義の蓄積プロセスが継続している限り、それでは不十分である。成長は資本のやみくもな自己実現によって推進されており、金はもっと多くの金を稼ぐための生産に投資され、その実現のためにはより多くの価値を生産することが求められる。したがって、脱成長は資本が自由に価値を操る機会が減り、金融市場によって膨張させられた架空の資産が価値を失うことを意味する。また、公正なエコロジー的な経済に到達するためには、脱成長の経済への転換の過程で多くの生産設備(特にすべての化石資源部門)を廃止しなければならない(資本の引き上げ)。このどちらも資本の破壊を意味する。グローバルな社会的権利が実現されるためには、この政治経済の中心的な問題を避けることはできないし、権力の問題を避けることはできない。問題は、新自由主義のグローバリゼーション・プロジェクトとその中での市場自由化(WTO、IMF)、民営化、規制緩和、社会的機関への攻撃が国境を越えて活動する資本の権力を著しく強化してきたことである。FAQ(よく尋ねられる質問):どのような関心、集団、戦略を持つ社会的機関をどのように配置すれば、「公正な脱成長社会」を確立し、生産部門を脱商品化、脱金融化できるのか?

10) 伝統と近代を超えて、「善く生きる」[9]

「永遠の成長」という考え方と「ホモエコノミクス」[10]という概念は近代という概念に組み込まれている要素である。この概念は今、ここで廃棄するべきである。しかし、よい知らせがある。ブルーノ・ラトゥールは「われわれは近代人だったことはない」ことを発見し、ダナ・ハラウェイはそのことを確証した。[vii]また、フランスの都市計画家のポール・ヴィリリオによると、われわれは「スピードマニア」でもない。[viii] しかし、われわれは成長を放棄し、成長にさよならを言ったとしても、われわれは人権や民主主義という近代的な概念を主張しつづけるだろう。これらは解放のための闘争の果実である。脱成長は進歩の可能性という考え方を放棄することを意味しない。そうではなく、進歩という考え方を商品の山や経済成長への信仰から解放する。したがって脱成長は伝統への回帰、石器時代への逆戻り、無節操なポストモダニズムへの屈服を意味しない。脱成長はポストコロニアル(植民地支配以後)の状況と、新興工業国の台頭に伴う多極化の状況、そこから導かれるグローバルな公正と平等の問題を真剣に取り上げる。経済成長のない平等社会での善き生活(善く生きる)という具体的なユートピアが伝統と近代を超える新しい方向を示す。「公正な脱成長の経済」という考え方は、支配的な経済思想や強迫観念の支配を超えて進む可能性を再び開いている。それは想像力を脱植民地化するということであり、経済成長、進歩、賃労働、効率、GNPのような神格化された概念を脱神秘化するということである。歩きながら自問しよう。

11) 「民主主義以後」ではなく「地域社会を横断する民主主義へ」[11]

1970-80年代以来の新自由主義的逆襲の中で民主主義は激しい攻撃にさらされてきた。最近では、世界経済危機の非常事態と銀行のために大急ぎで作られた巨額の救済パッケージによって、われわれは民主主義以後の時代に行き着いて。危機の社会的影響とバイオクライシスがもたらす社会的結果は民主主義体制に対する圧力を増大させている。したがって「公正な脱成長の経済」は新しい民主主義的制度を必要とする。それは地域および国内の民主主義の再構築である。ヨーロッパ規模の民主主義やグローバル民主主義はまだ遥か遠くにある。したがって生産のあり方の再構築においては、脱グローバル化、つまり、新しい民主主義的手続きに基づいて地域と国内およびグローバルの関係を新たに規定することが目標となる。[ix] その中には金融市場、特に投資の規制が含まれる。われわれは視野の狭い地域主義の罠には陥らない。また、移住者が激増しており、また、地球の人口が90億人になると予想される中で、人種主義・排外主義の罠にも陥らない。必要なのは「地域社会を横断する民主主義」の戦略である。

12) 脱成長の展望

緊縮財政政策(耐乏政策)に対する防衛的な闘いはユーロ圏で始まっている危機の第二段階に影響を及ぼすだろう。社会的支出の削減に対するこれらの闘いは現時点で、また当面は防衛的な闘いにとどまるだろう。(新自由主義的な、金融市場主導の)資本主義の先を射程に入れた攻勢的な展望はまだ見えていない。しかし、われわれは力を集中するために、新しい展望を必要としている。この新しい展望を示す照準(方向)の1つは脱成長の経済である。新自由主義が席巻した長い1990年代のあと、オルタグローバリゼーション運動あるいはグローバル・ジャスティス運動(労働組合、政治グループ、ネットワーク、諸団体によって構成される)は、新自由主義反対の立場から社会的問題を再定義する上で重要な役割を果たした。2007-08年前後に、バリでの気候変動サミットでの「クライメート・ジャスティス・ナウ!」(CJN!)の結成、パリにおける最初の脱成長会議、そして何よりもベレンでの世界社会フォーラム[x] における先住民運動の参加に象徴されるように、批判的・政治的観点からの公正なエコロジー、環境、気候の再定義が始まった。

われわれにとって、エコロジカル・ジャスティス(エコロジーにおける公正)が、グローバル・ジャスティス運動の第2のサイクルの不可欠の要素となることが差し迫った課題である。脱成長の展望は社会的問題とエコロジーの問題(分配の問題)を結合し、ミクロの実践とマクロの経済的概念を結合し、地域横断的な方法で地域と国家とグローバルを結合する。「公正な脱成長経済」は迫りくる地平線の中で古いものと全く新しいものを結合する攻勢的な運動の展望である。


[1] 英語版(https://postwachstum.net/2010/11/23/12-lines-of-flight-for-a-just-degrowth-economy/)より訳出。英語版タイトルは“Decroissance/Degrowth/Decrescita/Postwachstum”。脚注は訳者による。原注は文末に示している。

[2] 両著者はATTACドイツ評議会のメンバーである

[3] 「逃走線」はフランスの哲学者ドゥルーズによって導入された概念。

[4] ”good life”は「善い生活」と訳した。

[5] Leur recession n’est pas notre decroissance!

[6] 富める者が富めば、貧しい者にも自然に富がトリクルダウンする(落ちてくる)という考え方

[7] 「脱成長」に対応する語として、decroissance(フランス語)とdegrowthが使われており、必要な場合、前者を「decroissance (脱成長)」、後者を「脱成長」とした。

[8] 「ギアに砂を投げ込む」という表現は、1970年代に金融投機について警鐘を鳴らし、「通貨投機の歯車に砂をかける」として通貨取引税(いわゆる「トービン税」)を提唱した経済学者、ジェームス・トービンの表現を借りている。

[9] “Buen vivir”(スペイン語で「善く生きる」の意味)。自然と共に生き、「より良く生きる」のではなく「よく生きる」ことを重視する南米の先住民族の価値観で、エクアドル憲法にも組み込まれている。

[10] 経済活動において自己利益のみに従って行動する完全に合理的な存在。実際の人間の行動を近似したモデル(ウィキペディアより)。

[11] 原文は“Trans-communalism instead of post-democracy”


[i] Sustainable Development Commission (2009), Prosperity without growth?, http://www.sd-commission.org.uk/pages/redefining-prosperity.html; NEF (2010), Growth Isn’t Possible, http://www.neweconomics.org/publications/growth-isnt-possible.

[ii] http://www.denkwerkzukunft.de/index.php/englishdocuments を参照。また、Zac Goldsmith(保守派の下院議員)の“The Constant Economy“も参照されたい。

[iii] この言い方はJ・F・ケネディが最初に使ったもので、経済が成長すれば最も貧しい人々の所得も向上するという主張だった。たとえばIMF理事長のRodrigo de Ratoの『A Rising Tide Lifts All Boats: How Europe, by Promoting Growth, Can Help Itself and Help the World』(http://www.imf.org/external/np/speeches/2006/052206.htm)、NEFによるレポート(2006)『Growth Isn’t Working』(http://www.neweconomics.org/publications/growth-isn%E2%80%99t-working)を参照。

[vi] www.cadtm.org を参照。

[vii] Bruno Latour (2008), We Have Never Been Modern. Attempt at a Symmetrical Anthropology, Harvard University Press(「虚構の『近代』-科学人類学は警告する」、新評論社)、Donna Haraway (1991), Simians, Cyborgs, and Women. The Reinvention of Nature, Routledge, New York(「猿と女とサイボーグ――自然の再発明」、青土社)。

[viii] Paul Virilio (1986), Speed and Politics: An Essay on Dromology, Autonomedia (「速度と政治――地政学から時政学へ」、平凡社)。

[ix] Walden Bello (2002), Deglobalisation: Ideas for a new world economy, Zed Books. (「脱グローバル化 新しい世界経済体制の構築へ向けて」、明石書店)。

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